角帽
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かつて日本では詰襟の学生服に学生帽は、ごく自然な姿として言わばア・プリオリ(既定のもの、先天的)の学生のイコンとして私たちの日常風景に溶け込んでいました。 |
明治の時代から大学生のシンボルであった日本独特の角帽の由来は、「東京大学百年史」にある以下の記述が一つの定説になっています。
日本では江戸時代から漢学の素養を中心とした各藩の藩校教育、庶民では寺小屋の教育がありましたが、それらは全国的で統合的なものではありませんでした。 明治維新の開国によって否応なく欧米諸国の帝国主義・覇権主義の中に入っていった日本は、「脱亜入欧」「富国強兵」「殖産興業」という言葉に代表されるように、西洋から先進的な諸科学諸制度を学びながら、同時にその西洋の脅威、侵略から身を守るための国家建設を緊急に迫られていました。 教育はそれを支えていく根幹でした。 明治2年、維新政府によって後の東京大学の母体になる大学本校(旧昌平坂学問所)、大学南校(旧開成所)、大学東校(旧西洋医学所)が設置されました。特に大学南校に入学してきた「貢進生」とよばれる学生が近代学校・学生のもとになったといわれています。 貢進生は、各藩が自らの費用で年令十五歳から二十一歳までの選ばれた秀才を東京の南校に留学させた制度で、藩の枠を越えた全国的な教育制度と欧米の学問の修得をめざした近代学校の嚆矢とされています。ここから明治の教育を支えた多くの指導者を輩出していきました。 明治5年(1872)8月、日本で初めての学制が公布されます。しかし義務教育の概念や必要性が理解されなかったこと、受け入れる側の学校や先生の体制が不備であったことなどで制度が行き届くにはかなりの時間を要しました。 明治初期の学生は一部の士族の子弟以外は大体において貧乏で生活も楽ではなく、服装も飛白に小倉袴、素足に下駄といった質素なものがほとんどでした。加えて学生の身分や役割が曖昧模糊としていた上、士族出身者は帯刀も許されて素行の荒い者も多く、遊郭や銘酒屋・矢場といった遊里に出入りする不逞の輩が出て風紀やモラルが低下し、近代学校の確立と運営をしていく上においても解決しなければならない問題になっていました。 前述の和田義睦の云う「学生堕落防止策」とはこのことを指していっています。 制服や制帽というものは初期の段階では学生の綱紀粛正と規範の確立のために制定されたものでした。 ところで先に和田義睦の角帽由来の記述を紹介しましたが、明治四十三年四月十七日付報知新聞に、「一高制帽の由来」という標題で、予備門(※6)の学生だった芳賀矢一(※7)の談話を伝える形で以下の記事が掲載されています。
ここで芳賀は三つのことを私たちに伝えています。 一つはハイカラな学生帽としてオックスフォード大学とケンブリッジ大学の学帽があったこと。 一つは制帽といえば軍隊の帽子だったということ。 もう一つは旧制高等学校のシンボル白線帽の由来について、です。 |