和田と山口が考えた角帽はすでにかなりの学生がかぶっていたものと思われますが、東京大学が帝國大学に改組された明治十九年(1886)四月二十八日に正式に制定されました。(「東京大学百年史」)
当時東京大学予備門の生徒だった芳賀は学生(明治十四年に大学本科を「学生」、それ以外を「生徒」と称するようになっていました)と区別するために角帽の鉢巻のところに一条の白線を入れてかぶった、ということを述べています。
この予備門が同じ明治十九年に第一高等中学校になり、同年五月廿日には
制帽の制定
一、自今元東京大學豫備門制定ノ角帽ヲ當校ノ正帽トシ麦稈帽ヲ略帽トス
一、平常ハ正帽略帽着用随意タリト雖モ将来行軍射的等ノ為メ演習服着用ノ節ハ時季ノ別ナク必ス正帽ヲ用フルモノトス
但夏季行軍演習ノ節ハ左ノ如ク正帽ノ上部ニ白布ヲ覆モノトス
右掲示ノ事
明治十九年五月廿日 |
という掲示が出され、最初は学生と同じ角帽をかぶっていることが分ります。ところが同年九月十五日には
帽子改造ノ件
今般當校正帽ハ従前ノ角帽ヲ丸形ニ改メ別紙雛形ノ通リ相定度此段相伺候也
但従前ノ角帽所持ノ生徒夥多有之候義ニ付改正ノ丸帽ハ凡ソ一ヶ年ヲ期シ漸ヲ以テ相更メサセ候條為念附陳候也
第一高等中學校本科生 同豫科生
正帽地質黒絨横章白線 正帽地質同上横章白線
二條巾凡各貳分 一條巾凡三分
但帽章ハ従前之通 但同上 (※)
(※)この文書は縦書きなので、同上というのはここでは左記の本科生の記載と同じという意です |
という伺書(杉浦重剛校長へか、或は文部省に対してか)が出されます。続いて九月十八日に
今般當校ノ正帽ヲ丸形ニ改メ別紙雛形之通相定ム
但従前之角帽所持ノ生徒ハ向フ一ケ年ヲ期シ改定ノ丸形ニ改造スヘシ
右相達ス
明治十九年九月十八日 |
という通達が学生に出されました。(「旧制高等学校全書」より)
学生がかぶっていた角帽と識別するためクラウンを丸くした帽子にして、すでに角帽を持っている者は一年間の着用を猶予期間として認め、一年経ったら丸型に改造すること、本科生徒に二条白線、予科生徒に一条白線をつけるようにしたことが分ります。白線は後に二条に統一されます。
黒羅紗地に白線二条の高等中学校の帽子は、この後新設されていくナンバースクール、地名スクールなどを始めとする多くの旧制高等学校で採用され、マント、朴歯の下駄、弊衣破帽のバンカラとよばれる独特のスタイルを作り、寄宿寮、ストーム、名物教授などの数限りない逸話・伝説を各地で生み出し、エリート意識と相俟って日本の学生・青春の象徴となっていきました。
大黒帽ともよばれる黒の帽絨(ぼうじゅう=クラウンの生地のことで純毛。黒羅紗と同じ)を使って天井を丸くして革の庇に顎紐をつけた丸帽は、小学生から中高校生まで、また明治から昭和にいたるまで全ての日本の男子学生・生徒に親しまれる学生帽になっていきました。
学生帽は戦後になるとウールレーヨン混紡の生地にデラクールの庇と顎紐、さらにはビニールやクラリーノ附属の帽子が出来て、価格が安いこともあり急速に普及していきました。今では革附属の帽子はあまり見られなくなりました。
白線帽は白線を付けた帽子も売っていましたが、旧制高校の多くは普通の学生帽を買って、各々が白線(テープ・ライン)を自分で縫い付けていました。線の太さや縫い付け方がまちまちで、間隔が違っていたり太い線に見えたりしていました。
詰襟の学生服は非常に高価な物だったので、それが買えない者は短褐弊袴(小倉袴)に紺飛白の質素な和服と下駄をはき、この学生帽だけはかぶって学生であることの証にしていました。
学生服は小倉織(木綿)生地に濃紺かやや濃い灰色もしくは褐色、あるいは霜降りと呼ばれる灰色でした。黒は大変難しい染色だったので、戦後の学生服のように真っ黒なウールやウールポリエステル混紡で型がきれいに決まったものではありませんでした。
こうして学生服と学生帽は視覚面において、ゾルレン(あるべき姿・理念、後天的)としての学生像に大きな役割を果たしていくことになります。
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