角帽
軍帽
白線
そして
参考文献
日本の角帽
欧米の角帽
学生帽・白線帽

CAP& GOWN

始めに紹介した和田らが考案したという帽子で、何故帽子のトップが平たい四角になったのかということを考える時、芳賀が述べているように欧米の大学で入学式や卒業式の時に学生や教授が被る通称モルタボード”mortarboard”とよばれる角帽がその発想のもとになったことは確かなことだと思われます。

"mortar board"というのは、レンガ職人がブロック積み作業のときに使うモルタルを載せておく台のことをいいます。それより前には"trencher-cap"、"trenchers"(四角い古風な料理皿)とも,あるいは"catercaps"とも呼ばれていました。"mortarboard"と呼ばれるようになったのは19世紀頃からで、これらは形状からくる通称と考えられますが、その形の淵源は10世紀頃の聖職者(Roman Catholic Clergyman)がよくかぶっていた「ビレッタ」(biretum,biretta)という帽子にあるといわれています。
ビレッタは、やや膨らんでいるクラウン(頭を覆っている部分)を三辺ないしは四辺の背をつけて盛り上げ、トップに房(tuft)をつけた形の帽子で古くは枢機卿から助祭まで被り、シルク地の色で階級を識別していました。tuftは今ではモルタボードの向かって右に垂れ下がっているTasselとよばれる房になっています。
それがヨーロッパ中世におこった大学の歴史とともに受け継がれアカデミックな場面で使われていくうちに変容し今の角帽=モルタボードになっていきます。

大学の勃興は、ギリシャ語ラテン語典籍からの翻訳本の増加とヨーロッパ中世の商品経済、貨幣経済の飛躍的な発展による封建社会の変容と都市の形成によってもたらされたものでした。
土地の束縛から自由になった農奴、農民らが商人や職人になって集まってギルド(職能組合・同業組合)などで町を作り、その中で官吏、法律家、弁護士、僧侶、医師といった人たちの需要が次第に増えていきました。
これらの職業の人は総じて読み書きの能力や多方面な知識が要求され、当然それらの知識を提供し教える職業としての教師もまた多く必要とされていきました。
こうしたヨーロッパでの共時的な流れの中で、13世紀のイタリア・ボローニャ大学、フランス・パリ大学、イギリス・オックスフォード大学の誕生が今でいう大学の代表的な起源であるといわれています。
とくにイタリア・ボローニャ大学は

「イタリアばかりでなくアルプスの向こうから、数百人の学生たちのよく集まる所になっていた。家庭を遠く離れ、保護者もなかったので、彼らはお互いの保護と援助のために団結した。そしてこの外国のすなわちアルプス越えの学生たちの組織が大学の始まりであった。この団結にさいして彼らはイタリアの諸都市においてすでに普通であった同業組合(ギルド)の例にならったように思われる。実際、大学(ユニヴアーシテイ)という語は、元来このようなグループまたは団体全般を意味していた。そして時のたつにつれてはじめて、教師と学生の同業組合に限定されるようになり、「大学は教師と学生の組合である」ということになった。歴史的には大学という語は宇宙(ユニヴアース)や学問の普遍性(ユニヴアーサリテイ)とは全然関係ない。・・・ボローニャの学生はこのような組合(ユニヴアーシテイ)を最初は町の人びとにたいする防禦手段として組織した。」
(「大学の起源」)

というように国際的な大学で、留学生の間で結成された学生組合”universitas”(ユニヴェルスィタス)が今の大学=ユニバーシティーの語源になっています。
カレッジ(college)というのは「学寮」という苦学生や貧困学生のために寄付などによって建てられた宿舎、居住会館などの寄宿寮のことで、次第に専門の教授がこの中で講義や指導を行うようになり、大学を構成する単位として重要な役目を担うようになっていきました。

初期のこうした大学の性格として

1.権威、政治権力に支配されない自由な教師と学生の集団
2.旧体制からの解放を目指した進歩的思想
3.教師より学生の組合が主で、それは学習者の組織であり自治体でありギルドであった
4.学生の主要部分をなす者は、下層階級出身で貧乏学生であった
5.学生も教師も国際的で、超国家的でインターナショナルなものであった
(「教育の歴史」)

が挙げられています。

これらの大学の教育課程は、七自由学芸科(セブンリベラルアーツ)をその基礎にしていました。七学科とは、文法学・修辞学・弁証学の三学(Trivium=トリウイウム)、数学・幾何学・天文学・音楽の四科(クワドリウイウム)のことで、いわば一般教養的な意味合いをもったカリキュラムでした。この基礎の上に専門的な法学、医学、神学がありました。日本の旧制高等学校の教育課程に大きな影響を与えたのがリベラルアーツの考え方でした。

学生に先行された形になりましたが教授・教師達も自分たちの職業保護と確立のため学生と同様、ギルドを模倣した組合(カレッジ)を結成しました。
ギルドの階級(親方・職人・徒弟)に類似した内的階級(博士・バカラリウス・学生)を導入し、大学の学位の体系と試験制度が概ねここから確立されていきました。
大学人がかぶる角帽をレンガ職人の使う「モルタボード」というのはもちろんずっと後代の事ですが、ギルド的な側面を受け継いでいる呼称なのかもしれません。

最初の学位が、教授免許としての「学士号」で、その上に「修士」(マスター=親方)と「博士」(ドクター=教授)があり、夫々の段階で試験を受けて上位の学位を取得しました。「学士」の試験形態と授与は

「・・口頭試問の・・試験に合格すると・・・大聖堂に赴き、そこで演説をし、さらに法律上のある論点にかんする自分の論文を読み上げ、学生の反論にたいし自説を弁護する。このようにして、はじめて大学の討論の場で教師の役を演ずることになる。そのとき彼は助祭長から正式に教授免許を授与され、またその職を表すしるしとして椅子、開いたままの書物、金の指輪、縁なし帽を与えられた。」
(「中世の知識人」)

あるいは

「パリ大学の・・・候補者は教授の質問に対する「返答」(responsiones)により、教育課目の主要な教科書を持っていることを証明した後で、四人の先生からなる審査委員の前で、議論することも自分自身で「講義」することも「結論」を導くこともできることを示さなければならなかった。したがって、バカラリウスの身分は、学生を受動的な聴講者の段階から引き上げて、自らいくつかの「講読」を行い、「討論」の結論を下すことができる教授助手としての段階へと移行させることを目的としていた。
博士号あるいは修士号が学士号の次にあった。それは次第に「歓迎式」(inceptio)という厳粛な儀式の外観をとるようになった。学校という観点から見るなら、それは単に形式上の手続きに過ぎなかった。新しい博士はまずバカラリウスたちと、そして今後同僚となる者たちと二回の連続「討論」を行って、その活気のあるところを見せた後、学部関係者全員の前で、大法官から博士の学位を表すもの(角帽、金の指輪、本)を受けたのである。」
(「中世の大学」)

というもので主に口頭試問、問答を中心にしたものでした。合格者は「平和の接吻」を受け、指輪・角帽・本を授与されました。ここで言う「角帽」は前述のビレッタの形に近いものだと思われますが、角のついた帽子が早い段階で学位のシンボルとして機能していたことが分ります。

一般の大学生の服装は広いヨーロッパにおいて時代、民族、地域、大学によって様々で、初期の段階では貧乏なこともあり一定の共通な服装はありませんでした。しかし13世紀半ばにもなると

「・・・・今まで、パリのいろいろな学部で遵守されてきたのに準じて、いろいろな修士や学士たちは講義をし、学徒の職責を果たし、制服やそれに似た性質の帽子とガウンを着て歩き回るべきである。・・・・」(ハイデルベルグ大学の設立勅許状(1386))  (「大学の起源})

とあるように、帽子(Cap)とガウン(Gown)を着用していることが学生と認識されるようになっていきました。
帽子は、例えばモルタボードなどは"skull-cap"と呼ばれるように頭部に乗せておく普段被るには難しい形で、この場合の帽子はベレー帽や大黒帽(Tam)のような柔らかい素材の被り易いものだったと思われます。
ガウン(Gown)あるいはもっと素朴な形としての頭巾は歓迎式などの式の時だけでなく普段の講義などでも着用し、これがヨーロッパでの学生の代名詞になっていきました。

学生は自衛のために組合を作り、それがユニバーシティの語源になっていることは前述しましたが、大学人・学生(Gowns)と敵対することが最も多かったのは、市民・町民(Towns)でした。
学生はしばしば喧嘩や社会的な問題を起こし、パリ、ボローニャ、そして特にオックスフォードでは死者がでるような諍いをしばしばおこしていました。
こうした混乱を避けることと自覚を促すために学生に一定の服装を着用させるようになりました。

13世紀に始まった大学は、後に貴族趣味的な豪奢、贅沢に流されたり理念を支える哲学の変容、政治の介入をうけながら停滞の時も迎えますが、角帽とガウンのパターンは次第にその特徴を純化させアカデミックなものの権威を象徴するものとなり、角帽がモルタボードと呼ばれようになった19世紀頃には芳賀が見ていたオックスブリッジスタイルのような形になりました。
このCap&Gownはアメリカに渡ってさらにモダンでポピュラーなものになっていき、今では幼稚園から高校、大学まで多くの学校で卒業式の時に着用しています。卒業者は大学のスクールカラーで制定された角帽とガウンを着て、式の後には全員で帽子を空に向かって投げ上げる習慣などもあり、それに憧れて目指す大学に進学する人もいます。

幕末から明治初期にかけて幕府の遣米使節団、新政府の岩倉欧米使節団をはじめ多くの日本の将来を託された官吏・技師・学生がフランス、イギリス、ドイツ、アメリカなどに留学、視察をしています。当然、彼らが見聞し学んだ欧米の大学の文献・資料とともに角帽とガウンを持ち帰ったはずで、それを芳賀が言うように日本の学校でかぶって歩いていたことは容易に想像できることです。


奇しくも日本とイギリスで角帽をかぶったキャラクターが登場する漫画があるのでご紹介しておきます。

日本のは昭和十一年(1936)から昭和四十六年(1971)の永きにわたり、戦前は朝日新聞、戦後は毎日新聞に連載され人気を博した横山隆一の「フクちゃん」という四コマ漫画です。
主人公のフクちゃんは、近所の叔父にあたるチカスケが大学受験に失敗して、早まって買っておいた「角帽」が気に入って貰い受け、それ以後ずっと角帽をかぶって登場するという不思議なキャラクターの子供です。本当は健ちゃんという子供が主人公でしたが、その健ちゃんに最初にアンパン帽とよばれる慶應型の学生帽を被せてもらっています。チカスケのはザブトンとよばれる早稲田型の角帽です。
フクちゃんは飛白の着物に前掛けをかけ下駄をはいてこの角帽をかぶっています。角帽を丸帽にすれば、明治三十年代から昭和にかけての庶民的な小学生を彷彿とさせる身なりをしています。また家庭教師で登場するアラクマさんもやはり飛白に袴姿で、当時の学生さん・書生さんの典型的な服装をしています。

イギリスのは、Leo Baxendaleという漫画家がcomic stripというジャンルの漫画雑誌The Beanoに1954年から連載を始めた”Bash Street Kids”という漫画です。
Bash Street Kidsは、ローマ時代創立(!)の伝統校であるバッシュ通り小学校のclass 2Bに通う10人の子供達の物語で、子供達の恰好は制服ではなく今でも見られるカジュアルなものですが、この学校の校長先生や先生が角帽=mortarboardを被りgownを羽織って登場しています。
威圧的で保守的で尊大な態度の象徴として角帽やガウンが用いられ、それを無視したりからかったり逆らって行動するヤンチャでいたずらな子供達の行動が面白おかしく描かれています。
作者が代りながら人気が今に続いているイギリスの学校ネタ漫画です。

日英の子供観、生徒観、漫画描写による笑いの違いが垣間見えて興味深いものがあります。

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