角帽
Cap&Gown
軍帽
白線
参考文献
日本の角帽
欧米の角帽
学生帽・白線帽

そして

明治維新から始まった日本の近代教育は昭和二十年の敗戦で一つの終焉、区切りを迎えます。

昭和二十二年三月、教育基本法と学校教育法が公布され、GHQの指導による義務教育を含んだ六・三・三・四制の直線型の教育システムが決定されました。昭和二十四年には国立学校設置法が公布され各都道府県に最低一つの国立大学が設置され学生が再び大学キャンパスに戻ってくるようになりました。
ようやくおとずれた平和の中、新しい民主主義のもと希望に満ちたスタートをしましたが、服装は旧帝大角帽に詰襟の学生服を着て戦前とあまり変わらないものでした。襟章には各大学の徽章と学部章(法科J、経済E、医科M、工科T、文科L、理科S、教育P)をつけていました。
しかし昭和三十年代になると上着は学生服でズボンは好みの色のスラックスをはいている学生が見られ始め、次第に学生服・角帽を見かけることが少なくなっていきました。

学生のスタイルが根本的に変わっていったのが、安保闘争を経て昭和四十年代(1965〜1975年)に全国で吹き荒れた大学・学園紛争でした。

過激な政治スローガン・アジテーションの裏に隠れていた深層海流は大学教育の変質と軋みでした。
大学マスプロ化による学歴インフレ、サラリーマン予備軍化、女子学生の増加などを背景にした「・・あの問いかけは大学生が大衆としてのサラリーマン予備軍になってしまった不安や憤怒と背中合わせになっている・・・かれらは、理念としての知識人や学問を徹底して問うたが、あの執拗ともいえる徹底性(ラディカル)はかれらのこうした不安とルサンチマン(怨念)抜きには理解しがたい。内面化した物語(教養知識人)と現実(ただのサラリーマン)の不整合から生じたアノミー(価値や欲求の不統合状態)だった。・・・教養主義という学歴貴族文化への「絶望的求愛」である。こうしてー可愛さ余って憎さ百倍ー学歴貴族文化へのテロルがはじま」りました。 (竹内洋 「学歴貴族の栄光と挫折」)

そして何よりもこれによってそれまでア・プリオリとしてあった学生像に大きな地殻変動が起こり、これ以降、大学生の形・スタイルが多種多様になり、画一的で非個性的な角帽や詰襟学生服は新しい個性・価値感にそぐわないアナクロニズムなものとして大学の一般学生から次第に敬遠されるようになっていきました。
一方、高校生中学生においては大学生のような自由はなかったので制服という枠の中で個性化や自己主張をせざるをえませんでした。そこで学生服の形状や特徴が誇張・デフォルメされた変形学生服を生み出し、一部の学生がこれを着用して風紀など生徒指導上の問題を惹起し、正統派学生服をも巻き込む形で制服論議に火がつき、詰襟の黒い学生服を廃止する学校が急激に増えていきました。
さらにこの傾向は小学校、幼稚園にまで広がり、日本の学生の服装は大きく変貌を遂げていくことになります。

黒の詰襟学生服は素材や型を改良して今でも全国の多くの学校で着用されていますが、学生帽は一部の伝統校や野球部、学校の式典以外では殆んどかぶられなくなっています。

私たちは学蘭学帽という形を作り上げ支えた「時代の精神」をすでに持ち得ません。

しかしメディアや情報媒体においては黒の学生服・学生帽がしばしば描かれ、それを見れば一目で学生であることを今でもポジティブに了解するイコンであることもまた事実で、桜花に学蘭と学帽は私たちの心に残り続ける日本の学生の原風景といえるかもしれません。


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