旗の知識 旭日旗
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旭日旗
南軍戦闘旗
旭日旗
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正しくは旭日旗(きょくじつき)というこの旗は、一般には軍艦旗あるいは海軍旗と呼ばれて海軍の旗と思われていますが、、もともとは明治三年五月十五日「太政官布告第三百五十五号」『陸軍國旗章並諸旗章兵部省挑灯幕等圖面之通ニ候條府藩縣一般紛敷印相用申間敷候事』という布告の中で「陸軍御國旗」という名で初めて公的に示された図案です。それによると
・縦四尺四寸(約134.2cm)
・横五尺(約152.5cm)
・日の丸横三分ノ一
・色は朱
となっています。縦横比でいくと1:1.14のほぼ正方形で、旗面中心に日章が配され、そこからやや細めの十六条の光線が放射状に伸びたデザインが描かれています。
ペリー来航から維新にかけ、疲弊した幕藩・門閥体制に替る新しい国家像をめぐる幾多の熾烈な抗争は慶応四年(明治元年)、戊辰戦争と総称される鳥羽伏見・東北・北越・函館戦争などの凄惨な戦いをへて明治二年五月、箱館五稜郭で榎本武揚が降伏して一応の終結を迎えます。
維新政府の緊急課題の一つ、近代軍隊整備はこれらの戦いの中で見られたいくつかの要素を引き継いで始められました。海陸軍(明治五年から陸海軍となります)の兵制・軍服・将校の呼称・軍旗などは太政官の下に置かれた兵部省の中で審議・決定されました。
明治三年四月の兵部省には
・卿:有栖川熾仁親王 ・大輔:前原一誠 ・小輔:久我通久
・大丞:山田顯義、河村純義、黒田清隆 ・權大丞:船越衛、蟻川直方
・小丞:曽我祐準、増田明道、佐野常民
などの名前が見えますが、その内の一人、曽我祐準(後に陸軍中将)はその自叙伝で
「大村大輔遭難後(大村益次郎暗殺のこと)、前原一誠(後に萩の乱で斬罪されます)が大輔に任じ、而して山田顯義、川村純義両氏が大丞に新任した。併し此の頃は變な具合で、省務は少しも捗らず、其の實薩長の睨み合ひという姿であつたにも拘らず、諸規則丈けは取調が始まった。其の委員は山田大丞と余と原田權頭(兵学寮權頭:原田一道)の三人であった。別席を開き着手した。原田が蘭書を口譯する。余は職原抄やら職官誌を参照して草案を作り、山田が決を取り、成案が出来ると、更に之を大小丞會議に附すという順序である。大體が西洋一般の普通の制式に基づき、日本の古制を参照して名稱を定むる譯である。夫れで申す迄もなく、将官は近衛府から、佐尉官は衛門府から、軍曹は鎭守府等から抜き出した。部隊の名稱又は軍旗、服章等も大概此の時の調査である。
軍旗の初案には日光の端末を削小した圖を會議に出したれば、金平糖の看板見た様だと笑はれたから、改めて端末を擴大して出したれば、是は妙だと評された。是が即ち今日の軍旗である。佐野兵部小丞(常民)は海軍主任であつたが、大中少尉の字を毅に改め度と主張されたれど、余は賛成せなかった」
( )内編集部注記
と述べて当時の兵部省の雰囲気を興味深く伝えています。
戊辰戦争では倒幕軍は朝廷より下賜された十六弁菊花紋旗を前面に出し、その他に薩長土の紅白の識別旗、また兵士は官軍の印として赤い錦の短冊を袖につけて戦いました。
皇室(朝廷)の正式な御紋は、太陽と月を丸い金と銀にシンボライズしてシンメトリーに配した日月紋ですが、菊は中国では古来から長寿の霊草として尊ばれ、日本には仁徳天皇の時代に伝来し次第に王朝の生活や儀式に溶け込み、日華・日精ともよばれる優美な均整のとれた紋様から後鳥羽上皇はじめ歴代皇室で好んで使われていました。(菊は日本列島にも自生していたといわれますが、中国或は大陸からの影響によって心象化・抽象化・紋様化されていったと考えられます)
幕末、王政復古の流れの中で佐幕派・倒幕派が軍事的に先鋭化するなか、朝廷の岩倉具視、薩摩の大久保利通、長州の品川弥二郎らが画策して、公卿で国学者の玉松操が考案した十六弁菊花紋の紅白旗と錦布日月章を密かに製作保管し、鳥羽伏見の戦端が開かれるや直ちにこれを官軍の徴である「錦の御旗」として掲げて味方の士気を鼓舞し、幕府側兵士の心胆を威圧しました。
一方、内外で日本国の国旗として認識されていた日の丸は反幕、佐幕両軍で使われていましたが、上野寛永寺で戦った彰義隊の日章の幟や、苦しい展開の中でも誇り高く戦った奥羽越列藩同盟で、庄内藩が使った日章旗や会津藩兵士がつけていた日章の袖章、長岡藩河井継之助が決死の際の采配に用いた日の丸の軍扇、函館戦争の五稜郭で翻った日の丸など、戊辰戦争を通して佐幕軍側で多く使われていました。日の丸が日本の”印”であることを最初に布告したのは他ならぬ幕府でした。
また同盟軍の幟にはやや丸みを帯びた太い五線星形のシンボルマークや、庄内藩では酒井吉之丞(玄蕃)の北斗七星を配した戦闘旗(破軍星旗)などユニークな旗が残っています。
兵部省の担当者はこれらの経緯や戊辰戦争の前線の様子を見ていたはずで、新たな軍旗を考案する際、日の丸は旭旗とも呼ばれていたことや、日紋に光線を加えた日足紋という家紋などがあり、十六条光線を日章の図案に加えるのは自然な発想だったのかもしれません。
あるいは、菊花とその紋様はもともと日華・日精と呼ばれるように太陽のメタファーと捉えられていた歴史があり、十六弁菊花紋→日章→十六条旭日というイメージ連想がそこに潜んでいるのかもしれません。十六葉二重菊花紋(八重菊紋)が天皇家の御紋であると正式に布告されたのは明治に入ってからであり、明治二年、さらに四年にも菊花紋を民間が無断で使用することを禁ずる布告が出されています。
さらに言えば、日章即ち日の丸は外国と接することの多い船舶の幟として幕府によって日本の印であると布告されて、幕末動乱のなかで「船舶の印」とは海軍の国旗と同義になり、戊辰戦争の勝者である薩長土肥=官軍が主体の近代軍隊即ち陸軍が形成される過程で別の新しいシンボルが必要とされたのかもしれません。それが明治三年の布告の「陸軍御國旗」という定義に表れているのではないでしょうか。
しかしそれらが前述の曽我祐準が述べたように当時の兵部省担当者の独創であったのかどうか、そうでなければ誰がいつどこで最初に旭日を一つのイズムの象徴として使ったのか,八条と十六条の使い分けはいつはじまったのかなどは今のところ実証されていません。
因みに、「箱館大戦争之図」(永嶋孟斎画)[市立函館博物館:五稜郭分館所蔵]という錦絵には八条旭日旗を持って戦う新政府軍が、「白虎隊英勇鑑」(肉亭夏良画)には旭光の胸章をつけて自刃する会津少年兵士が描かれています。(錦絵は戦争後に大衆の娯楽の為に歴史物語などに仮託して想像しながら書かれたところがあり時代考証など定かではありませんが、当時の様子を伝える貴重な資料になっています)
幕末には幕府軍はフランスの指導援助のもと、薩長連合軍をしのぐ海陸軍を有していました。元治元年(1864)、幕府の小栗上野介忠順はフランスの援助をうけ、造船のための横須賀製鉄所を建設、それに関連して慶応元年(1865)には栗本鋤雲らによりフランス語学校も創設して、翌慶応二年の卒業式には栗本貞治郎が伝習生を代表してロッシュ公使に「日章国旗ヲ全世界ニ貴国ノ旗ト共ニ併セ輝サンヲ所希ス」という答辞を述べています。さらに慶応三年には第一次フランス軍事顧問団が来日して幕府軍の調練を始めています。
維新の新政府は、この幕府が残したフランス式兵制を引継ぎ、明治三年十月、太政官布告六四九号で「海軍ハ英吉利式陸軍ハ仏蘭西式」で編制する旨の布告を出しました。明治五年には再びフランス軍事顧問団が来日し、新政府のもと軍隊軍備全般にわたる指導、建白をしました。軍隊整備の中には軍旗のこともあり、顧問団一員のルボン大尉は家族に宛て、日本側がフランス軍旗の正確な寸法を聞いてくる云々を書き送っています。このことはナポレオン3世下のフランス陸軍旗の規格や規定を参考に日本流の軍旗を考えていた様子をうかがわせます。
こうした中、明治七年十二月二日、「太政官布告第百三十号」『陸軍歩騎砲三兵聯隊軍旗並歩兵大隊旗及ヒ同嚮導旗別紙圖面ノ通被定候條此旨布告候事』で新編成がなった連隊の正式軍旗の布告が出されました。
その中で歩兵聯隊軍旗は
・縦二尺六寸四分(約80cm) 横三尺三分(約100cm)
・周圍黄色ハ金モール
・縁紫色ハ絹糸(明治十八年の改正で常備軍は紫色、後備軍は赤色になります)
となって、縦横比1:1.25で明治三年のより小さくなり旗手が保持しやすくなっています。更に袋通しに黒塗りの棒、菊花紋の竿頭、連隊番号を記した縦七寸(約21.2cm)横八寸(約24.2cm)の白布を竿側の下に縫付ける仕様などが図案から分ります。(下図は『別紙圖面』をもとに当社図案部で彩色再現したものです)
また騎砲聯隊軍旗は縦横とも二尺四寸七分五厘(約75cm)の正方形になっています。
この軍旗が明治七年一月二十三日、日比谷操練場で近衛歩兵第一、第二聯隊に、同年十二月十九日には同操練場で歩兵第一、第二、第三聯隊に、宸筆による連隊番号が書かれた白布を縫付けた軍旗が天皇から親授されました。
各連隊は一度賜った軍旗を、たとえ房だけになっても、それは部隊の名誉と誇示して使い続け、もし玉砕に至る場合はこれを焼却し軍旗を敵に奪われるのをもっとも恥辱と考えました。
明治十年(1877)二月、維新最大の元勲、陸軍大将西郷隆盛と私学校の兵が鹿児島で挙兵、陸軍少将谷干城が篭る熊本鎮台の熊本城を包囲して西南の役がはじまりました。政府軍は上記の軍旗を掲げて戦いましたが、乃木希典少佐(後に大将、学習院長)が率いていた熊本鎮台小倉歩兵第十四聯隊が、田原坂近くの植木という所の激戦で、旗手戦死により軍旗を薩軍に奪われてしまいました。結局部隊に軍旗は再下賜されるのですが、乃木大将は終生これを恥辱と考え、明治天皇崩御による殉死の際の遺書にこのことが認められています。
海軍では明治二十二年十月七日、「勅令第百十一号」『海軍旗章條例』の中で軍艦旗として旭日旗の規定が示されています。それによると
・地色 白
・日章光線 紅
・横 縦ノ一ト二分一
・日章中心 旗面ノ中心ヨリ風上ノ方二偏スルコト縦ノ六分一
・日章徑 縦ノ二分ノ一
・光線幅 十一度四分一
・光線間隔 十一度四分一
となっており、これを後檣縦帆架若しくは艦尾の旗竿に掲げ、きたる十一月三日より使うよう条文に記されています。赤の色は「陸軍御國旗」では「朱」となっていましたが、ここでは、艦首旗の日章旗と同じように「紅」になっています。大海原や蒼穹の中では紅のほうが際立つ、ということかもしれません。軍艦の旗は強い雨風にさらされて消耗が激しく、取替用の旗を種々用意して掲揚しました。この帝國海軍の日章中心を竿側にずらした図案が今私たちがよく目にする旭日旗のデザインになっています。
旭日旗は日本の軍国主義と帝国主義の拡大とともに広まっていき、夫々この旗に対するイメージは異なりますが、軍旗というものが洋上・戦場で鮮明に映ることを第一義とするなら、旭日の発想とデザインは視認性・象徴性において日章旗より優れており、外国人の目には旭日旗の印象が強く残って日本国の通称「The
Rising Sun Country」と言われるもとになりました。
現在では海上自衛隊で十六条旭日旗、陸上自衛隊では八条旭日旗が使われています。
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