旗の知識 南軍戦闘旗

 日本国   大英帝国   アメリカ合衆国   エチオピア   オランダ王国   デンマーク   旭日旗   南軍戦闘機 

南軍戦闘旗
Confederate Battle Flag

この旗はアメリカ南北戦争(Civil War)の時の通称「サザンクロス」と呼ばれる南軍戦闘旗です。
よく知られている3:5の横長の旗は"Confederate Navy Jack"という南軍の海軍旗で、もとになった戦闘旗の正式縦横比は1:1の正方形になっています。
Confederacyという言葉は南部連合国とか南部連邦・南部盟邦と訳されていますが、字義通り訳すと”反連邦”という意味になります。

最初の南部スピリットを象徴する旗は、1810年9月11日、西フロリダのスペインからの独立を求めてバトンルージュ(現ルイジアナ州首都)で決起した反乱軍が掲げたボニーブルー(The Bonnie Blue Flag)と呼ばれる旗でした。青地の旗面中央に白い五稜星の一つ星を配したシンプルなデザインの旗で、別名ローンスター(The Lone Star Flag)ともいわれ、後にテキサス共和国では一つ星を黄色にして採用し、1861年1月のミシシッピー州連邦離脱宣言の時には首都ジャクソンで掲揚されましたが南部盟邦の国旗として扱われることはありませんでした。しかしローンスターのコンセプトは今でもテキサス州旗に引き継がれています。

1861年から1865年にかけてのアメリカ南北戦争は、南北双方の「国旗をかけた戦い」といわれ、この戦いを境にして、アメリカは州権の上に立つ連邦主権を確立するステートメーキング(State Making)を果たしていき、同時に愛国心・忠誠心・連帯意識の象徴としての国旗=星条旗の絶対性を確立していきました。

南北戦争勃発の最大の要因であった南部の黒人奴隷制度は、北米大陸の北部と南部に移住してきた主にイギリスからの移民層の違いに源を発し、広大な農園でのタバコ・綿花栽培の開拓と収穫のきびしい労働には黒人奴隷の安い労働力に頼るしかないプランター(大地主)達によって南部セクション経済を支える重要な要素として組み込まれていきました。しかし、反奴隷制を主張し、商工業・金融などの都市産業を基盤として連邦経済の主要部を占めていたニューイングランドなどの北部セクションとの産業構造の違いが、次第に一国の政治、政策の中で,また文化的にも相容れないものとなっていきました。
それでも南北の各勢力はメーソン=ディクソン線という境界線を境に、自由州と奴隷州は中間州を挟んでほぼ同数の州とその選出された議員・連邦議会でかろうじて均衡が保たれていました。しかし1846年の米墨戦争によるテキサス、カリフォルニア領土獲得(グアダルペ・イダルゴ条約)など「明白な運命」(Manifesto Destiny)理論に基づく西部開拓、領土拡張によって西部セクションが新たに加わり、そのバランスが崩れていくようになりました。
当時は独立13州のすぐ西にあるアパラチア山脈を越えた地域以西を全て西部と呼んでいました。ここに新たなフロンティア移民が住みつき、成年男子(奴隷・女性・未成年者は含まない)が5千人以上になれば準州(テリトリー)として認知され、6万人以上になると州憲法などを整備して連邦議会によって正州に昇格する手順になっていました。その時、昇格する州に奴隷制を認めるか認めないかで南部と北部の議員と議会は連邦政府の主導権をかけて激しい論争・政争を繰り広げ、互いが脅威不安を感じ相互の不信感は抜き差しならない状況になっていきました。
1860年11月、イリノイ州選出で結成間もない共和党のエイブラハム・リンカーンが合衆国(連邦諸州=Federal States of America)大統領選に当選すると、サウスカロライナ、ミシシッピー、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスの低南部7州が次々と連邦を離脱してアラバマ州モンゴメリーで南部連合暫定政府(C.S.A.=Confederate States of America)樹立を宣言しました。

南北戦争が始まる直接のきっかけとなったのは、A.リンカーンが第16代大統領に就任して直ぐの1861年4月、既に連邦を離脱しているサウスカロライナ州の首都チャールストンの沖合いにあって孤立していた連邦軍のサムター要塞に救援を送るかどうかの問題がおきてリンカーンが救援派遣を決めた時、南軍は既に撤退勧告を通告している中、南軍指揮官ピエール・.G・T・ボーリガード准将は4月12日午前4時半、ついに陸から要塞にひるがえっていた連邦星条旗に向かって砲撃を開始しました。
要塞は陥落し、星条旗に代わって掲揚されたのが南部連合国の最初の国旗であるスターズアンドバーズ(Stars and Bars)でした。スターズアンドバーズは、赤白赤の3本のバー(棒=ストライプですが太いのでバーになります)とカントンに連邦を脱退した7州の星を環状に配した国旗で、発想としては連邦星条旗と同じようなものでした。
一方、要塞守備隊長連邦陸軍ロバート・アンダーソン少佐は撤退の際サムター要塞に掲げていて、砲撃で半分以上破損しストライプスの部分が切れ切れに破れていた33星星条旗をニューヨークに持ち帰りました。南軍のボーリガードは元連邦陸軍大尉で、ウェストポイント陸軍士官学校の時の恩師であるアンダーソン少佐に軍人としての敬意を表し国旗を持ち帰ることを黙認したのです。
ところが北部側はこの傷付いた星条旗を一般に公開して北部の愛国精神の高揚と危機感を煽ることに利用、リンカーンが徴兵制布告、戦時臨時国会を召集、一方ヴァージニア、アーカンソー、 テネシー、 ノースカロライナの高南部4州が新たに連邦を離脱して、ここに南北戦争が始まりました。

南軍は最初の国旗であるスターズアンドバーズを使って緒戦を有利に進めていましたが、北軍の星条旗とよく似ているため、戦火煙る戦場ではしばしば敵味方の識別が難しくなり、友軍を攻撃、誤射するなどの混乱が起きていました。
1861年9月、南軍ポトマック軍(北ヴァージニア軍)(連邦首都ワシントンに流れているポトマック川は南北双方にとって戦略的に重要な地域で、夫々にポトマック方面軍を置いて熾烈な攻防戦を展開します。またワシントンは中間州メアリランドと奴隷州ヴァージニアにまたがるD.C(District of Columbia)特別区という微妙な位置にありました)の司令部にP・G・T・ボーリガード将軍、J・ジョンストン将軍、W・P・マイルズ連邦議員などが集まり、北軍と明確に識別出来る戦闘旗作成について話し合いが持たれました。
その場でマイルズ議員が母国スコットランドの守護神セントアンドリューのXクロスを用いることを提案し、これに南部独立11州とミズーリ州を加えた12の星をクロスに配した正方形のデザインが基本的に採用されました。 南部にはスコットランド、スコティッシュアイルランド系の移民が多く住んでいました。
南軍の各地域、連隊はこのデザインを基本にして夫々の戦闘旗を作って戦いました。
旗は意匠と意味が共鳴して始めて普遍的なものになっていきますが、この南軍の戦闘旗は、新しい政体(民主制・共和制)を連想するトリコロール、宗教性・歴史性・犠牲を暗示するクロス、連合・連帯を象徴するスターのイメージと意味を融合させた視覚的にも識別しやすいデザインとなり、次第に南部の魂・結束を表すシンボルとして広く受け入れられていきました。(よく知られている南軍旗はケンタッキー州も加えた13星クロスのデザインになっていますが、最終的にはミズーリ州、ケンタッキー州は連邦を離脱しませんでした)
後にスターズアンドバーズに代わって新しい国旗が2度にわたって改訂されますが、カントンにはこの戦闘旗のセントアンドリュースクロスが配されています。
対する北軍には共通の戦闘旗といわれるものはありませんでしたが、連邦星条旗とともに、青や白のシルク地に鷲・州名・連隊番号を書き記した旗や、星条旗のカントンの部分に星と軍の紋章を、またストライプスの部分に金文字で連隊名や任務などを書き込んだ連隊旗を各々用意して戦いました。

戦争初期には南軍もトマス・”ストーンウォール”・ジャクソン将軍、ロバート・E・リー将軍などの優れた指揮官と勇猛な兵士により勝利もしくは対等に戦っていましたが、広い戦線と海軍力などで次第に国力の差が歴然としてくるようになり、1863年7月の北東部戦線ペンシルヴァニア州のゲティスバーグ、西部戦線ミシシッピー州のヴィックスバーグの北軍勝利で戦局は大きく北軍有利に傾きます。
1864年3月にはユリシーズ・グラント将軍が北軍総司令官につき、9月には北軍ウィリアム・T・シャーマン将軍がジョージア州アトランタを占拠し、南部の土地に深い傷跡を残しながらジョージア州サヴァンナに向かって「海への進撃」を始めます。
1865年4月3日に南部連邦首都ヴァージニア州リッチモンドが陥落、4月9日南軍リー将軍がアポマトックスで降伏文書に調印、5月10日の南部連邦大統領ジェファーソン・デービィス逮捕によって、4年にわたる人的にも経済的にも莫大な損害をもたらした悲惨な戦争に終止符が打たれました。

南北戦争は一国の内戦でありながら、動員された兵士、使われた近代兵器、兵站全てにわたっての死力を尽くした世界史上初めての近代戦争で、戦争と大量殺戮の20世紀を予感させる戦いでした。
この戦いでの死者は正確な数字は出ていませんが、北軍で約36万、南軍で約26万、両軍あわせた死傷者は100万を超えていたといわれており、死者の数はベトナム以前のアメリカが戦った戦争の合計より多いという信じられない戦いでした。
戦場の多くは南部で行われ、救護体制や医療技術が戦線の展開に追いつかず、いたるところのプランテーション(大農園)の屋敷・木陰に机を出しただけの急拵えの医療所が設けられ、腕・脚の切断などは麻酔なしの手術で行われ、負傷した後にも多くの死者を出すという悲惨な状況だったといわれます。
1862年9月18日のアンチタムの戦いでは1日の戦闘で北軍1万3千人、南軍1万3千人、 1863年7月1日、北軍優勢を決定付けたゲティスバーグの戦いでは3日間で北軍2万、南軍2万5千の、一説には両軍で5万を超える戦死者を出したという想像を絶する凄まじい戦いを繰り広げました。
同年11月19日、リンカーンは、このゲティスバーグの地で行われた北軍戦没者墓地献納式典において、「・・・人民の、人民による、人民のための政治・・・」という有名な演説を行いました。
リンカーンが演説の為に立った場所は、ペンシルヴァニア第99連隊が累々たる死者の上に、尚もハーヴィ・メイ・マンセル軍曹以下の軍旗護衛兵(The guard of The Colors )が合衆国連邦旗を文字通り死守し立てていたポイントでした。 リンカーンの言葉は、北軍兵士の鎮魂慰霊のために捧げられたものですが、民主主義の真髄を示した至言として広く世界に知れ渡っていきました。
リンカーンは奴隷解放宣言をして北部を勝利に導き、その後のアメリカの進路を決定付けた偉大な政治家でしたが、1865年4月14日、苦悩の果てに掴んだ北軍勝利の宣言をすることなく北部の熱狂的な南部連合愛国者ジョン・ウィルクス・ブースによって暗殺されます。

南北戦争の最大の問題であった黒人奴隷の解放は、結局戦後復興される中で挫折していきました。自由州の主張した反奴隷制は理念的・道義的・政治的側面が強く、当時のアメリカの人口3100万のうち南部に集中していた400万人の黒人をどうするかは実際には簡単に扱える問題ではありませんでした。
逆に新しく出来た物納小作人(シェアークロッパー)制度などの不安定な収穫で、前より劣悪な貧困・差別・環境の中に黒人はおかれていき、ナイトライダーズ(Knight Riders)と呼ばれるK.K.K.(クー・クラックス・クラン)などの過激な白人秘密結社が生まれ、恐怖や矛盾を内部に深めてさえ行きました。
しかし黒人が生活や仕事を前より自由に選んで移動できるようになったことも事実でした。ミシシッピー河に沿ったミシシッピー州の北西部、ルイジアナ・アーカンソー州境に接するテネシー州メンフィスからミシシッピー州ヴィックスバーグにかけての肥沃で広大な縦長の平地をデルタゾーンといいますが、19世紀末から20世紀はじめにかけて、この土地に少しでも安定した豊かな生活を求めて多くの黒人が集まってきました。この地域で、黒人達が自らの苦悩、苦痛、祈りを教会で、あるいは夜の酒場の楽しみで歌い継いできたゴスペル、ワークソング、リズムアンドブルースなどがデルタブルーズと呼ばれる音楽になり、プアホワイトの白人達が歌っていたカントリーやブルーグラス、ジグなどの西洋音楽と出会う”クロスロード”になって、世界中の若者を熱狂させるRock'n'Rollが生まれていきました。エルビス・アーロン・プレスリーは1935年、メンフィスの南東にあるミシシッピー州テュぺロという小さな町でプアーホワイトの家庭に生まれました。
またイリノイ・セントラル鉄道に乗ってセントルイス、シカゴなどの北部の都市に流れたブルースミュージシャンによって、20世紀に生まれた最高の芸術の一つといわれるジャズが生まれていきました。

南軍旗は使われた地域や連隊によって様々なバリエーションがあり、その由来仕様をめぐって研究・論議が盛んに行われています。また北軍南軍兵士の服装や当時の衣装、戦闘を忠実に再現するリイナックターとよばれる研究家、愛好家のグループがあり、さらに戦争当時の物を扱ったマーケットも開かれています。
南軍の戦闘旗は奴隷制・人種差別を連想させ、一部の過激な主張の団体やグループが用いて色々な物議を醸していますが、一方において、そのデザインや要素は今でもアラバマ、アーカンサス、ジョージア、ミシシッピー、ノースカロライナ、テネシー、フロリダ州の州旗に取り入れられていることも事実で、ミシシッピー、ジョージア州ではサザンクロスの入った州旗の是非について住民投票も行われています。
このように愛着と嫌悪が複雑に交錯する南軍旗は、それらのことも含めて大変幅広い奥深い世界を形成しています。

そして南部の誇りと南北戦争の残した傷跡は、今でもアメリカ社会のどこかに息づいているといっても過言ではありません。

正式縦横比:SQUARE
通称:サザンクロス、ディキシークロス、セントアンドリュースクロス、レベル(Rebel)

[ディキシーとは、旧フランス領ルイジアナ(19世紀の初頭はミシシッピー河以西からロッキー山脈にかけての広大な地域をルイジアナといっていました。)で流通していた10ドル通貨に「dix」(フランス語の10)と書いてあったことに由来し、後に広く南部諸州を指す言葉になりました。
1682年、フランスの探検家ラ・サール卿は五大湖の南端、今のシカゴあたりからミシシッピ川河口までの南北を縦断する探検をした後、流域全体の権益がフランスに帰することを独断で宣言し、国王ルイ14世に因んで「ルイジアナ」と命名しました。この広大な土地を1803年、時の大統領トマス・ジェファーソンが1500万ドルでナポレオンから購入し、これによってアメリカは大陸中央部の肥沃で広大な大平原をなんなく手に入れるとともに、後に太平洋へいたる大きな足掛りを得ることになりました。]

Copyright (C)Kishodo All rights reserved